
プロフィール
生年月日 | 明治40年6月19日(1907年) |
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没年 | 昭和19年3月14日(1944年) |
職業等 | 小説家 |
出身 | 秋田県生まれ |
ゆかりの地 |
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経歴
矢田津世子は、明治40年秋田県南秋田郡五城目町に生まれた。父の仕事の都合で上京すると麹町区飯田町に住み、麹町女学校を卒業した。女学校時代から文学的才能を見出されていた津世子は、兄の不二郎の理解もあり次第に文学への志向を強めた。
昭和5年、「文学時代」の懸賞小説に応募して、『罠を跳び越える女』で文壇デビューをはたす。
昭和6年下落合の目白会館に下宿すると、当時左内町にあった長谷川時雨が主宰する女人芸術社に出入りして、大田洋子や大谷藤子ら女流作家たちと交流を持った。当時、文壇一と言われた美しい容貌もあって、津世子は周囲の注目を集めた。作家の坂口安吾が津世子の虜になった話は有名である。
津世子の代表作とも言える『神楽坂』は、昭和11年に武田麟太郎の主宰する「人民文庫」の創刊号に載り、これが第3回芥川賞候補となったことで話題をよんだ。
昭和13年ごろより、病床につくことが多くなり、病と闘いながら執筆を続けたが、19年、結核のために亡くなった。
主な作品に『花蔭(はなかげ)』『家庭教師』『茶粥の記(ちゃがゆのき)』『鴻ノ巣女房(こうのすにょうぼう)』などがあり、いずれも落合時代に発表されたものである。
新宿区内には昭和6年から亡くなる19年まで住み、最後に住んだ家は、中井の「一の坂」と山手通りのぶつかる交叉点の崖上にあった。
出典:新宿ゆかりの文学者
昭和5年、「文学時代」の懸賞小説に応募して、『罠を跳び越える女』で文壇デビューをはたす。
昭和6年下落合の目白会館に下宿すると、当時左内町にあった長谷川時雨が主宰する女人芸術社に出入りして、大田洋子や大谷藤子ら女流作家たちと交流を持った。当時、文壇一と言われた美しい容貌もあって、津世子は周囲の注目を集めた。作家の坂口安吾が津世子の虜になった話は有名である。
津世子の代表作とも言える『神楽坂』は、昭和11年に武田麟太郎の主宰する「人民文庫」の創刊号に載り、これが第3回芥川賞候補となったことで話題をよんだ。
昭和13年ごろより、病床につくことが多くなり、病と闘いながら執筆を続けたが、19年、結核のために亡くなった。
主な作品に『花蔭(はなかげ)』『家庭教師』『茶粥の記(ちゃがゆのき)』『鴻ノ巣女房(こうのすにょうぼう)』などがあり、いずれも落合時代に発表されたものである。
新宿区内には昭和6年から亡くなる19年まで住み、最後に住んだ家は、中井の「一の坂」と山手通りのぶつかる交叉点の崖上にあった。