
プロフィール
生年月日 | 明治29年6月13日(1896年) |
---|---|
没年 | 昭和62年9月30日(1987年) |
職業等 | 小説家 評論家 |
出身 | 京都府 |
ゆかりの地 |
|
経歴
山田清三郎は、京都市で生まれた。小学校を中退した後、様々な職業を転々としたが、その後上京して、大正11年に立野信之らとともに『新興文学』の創刊に関わった。反戦平和や人道主義的な革新思想を基調とする同人雑誌の『種蒔く人』や、それに後続する『文芸戦線』にも関わり、特に『文芸戦線』が大正14年6月に復刊する際には、彼が発行・編集・印刷の法定署名人となっていた。その頃はまだ、高円寺に居住していたようだが、大正14年11月15日頃に上落合に引っ越してきた。その後、昭和2年に前衛芸術家同盟(略称「前芸」)にも関わるようになった。
プロレタリア文学作品の「場」であった文芸雑誌『戦旗』の編集も行い、全日本無産者芸術連名(略称「ナップ」)でも重要な立場となって『五月祭前後』(日本プロレタリア作家叢書第3篇)なども刊行し、プロレタリア作家として認められるようになった。しかし、昭和9年頃の当局の弾圧でプロレタリア文学も崩壊したため、戦時中に転向を余儀なくされた。その後、満州新聞に入っていたところ、敗戦でソ連に抑留されることとなった。
帰国後は新日本文学会に所属し、『転向記』などの著書を出版した。
出典 日本大百科全書』『日本人名大辞典』目白学園女子短期大学国語国文科研究室『落合文士村』(双文社出版1984)
プロレタリア文学作品の「場」であった文芸雑誌『戦旗』の編集も行い、全日本無産者芸術連名(略称「ナップ」)でも重要な立場となって『五月祭前後』(日本プロレタリア作家叢書第3篇)なども刊行し、プロレタリア作家として認められるようになった。しかし、昭和9年頃の当局の弾圧でプロレタリア文学も崩壊したため、戦時中に転向を余儀なくされた。その後、満州新聞に入っていたところ、敗戦でソ連に抑留されることとなった。
帰国後は新日本文学会に所属し、『転向記』などの著書を出版した。