
プロフィール
生年月日 | 明治8年7月31日(1875年) |
---|---|
没年 | 昭和37年8月8日(1962年) |
職業等 | 民俗学者 |
出身 | 兵庫県生まれ |
ゆかりの地 |
|
経歴
柳田國男は、明治8年兵庫県に父松岡操(まつおかみさお)、母たけの三男として生まれた。10歳の頃、預け先であった三木家所蔵の和漢書や草双紙類などを乱読する。この経験は大きかったようで、柳田自身「私の雑学風の基礎はこの一年ばかりの間で形造られたように思う」と述べている。同23年に上京。開成中学、郁文館中学をへて、同26年に第一高等中学に入学した。在学中は『文学界』に新体詩を発表する文学青年であった。
明治30年東京帝国大学法科大学に入学し、農政学を専攻する。同33年卒業後、農商務省農務局農政課に勤務、同34年には信州飯田出身の大審院判事柳田直平の養子となり、牛込加賀町の柳田家に住むようになる。その後、法制局参事官、貴族院書記官長を歴任し、産業組合法を軸に農業の発展を目指す一方で、同41年の九州旅行をきっかけにして、勤務の傍ら民俗学研究の基礎固めに励む。大正8年には官僚生活を辞し、同9年に東京朝日新聞社客員として入社。社説の執筆などを行うも昭和5年に退社。以後、民俗学研究に専念するようになる。
柳田の民俗学研究を時系列的に整理すれば、第一期(1910年代)、第二期(1920年代後半~30年代)、第三期(1940年代後半~50年代)に分けられる。つまり、九州の山間農村部において、水田稲作民ではない焼畑や狩猟をする山人(やまひと)や少数派に属する生業従事者への関心を基にした研究(第一期)、慢性的な不況下にあって、現実の社会問題への解決法を模索した水田稲作民の研究(第二期)、戦時中から戦後にかけて、日本人としての自己認識を促すための研究(第三期)である。また、「山村調査」とよばれる統一項目による全国調査を行った。
民間伝承の会(後の日本民俗学会)、日本方言学会などで主導的役割をはたし、芸術会会員、学士院会員としても活躍、朝日文化賞や文化勲章の栄に浴している。また、小中学校国語教科書の監修にも積極的に取り組んだ。
昭和26年には國學院大學大学院教授に就任、理論神道学を講義した。同32年には蔵書を成城大学へ寄贈、現在は柳田文庫として提供されている。同37年8月心臓衰弱により他界。享年88歳(満87歳)。
なお、明治43年に発表した『遠野物語』は、新宿区市谷加賀町にあった自邸で執筆されたもので、自邸跡には「柳田國男旧居跡説明板」が設置されている。
出典:『作家の自伝61 柳田国男』 1998年(日本図書センター)、『日本民俗大辞典』 2000年(吉川弘文館)ほか
明治30年東京帝国大学法科大学に入学し、農政学を専攻する。同33年卒業後、農商務省農務局農政課に勤務、同34年には信州飯田出身の大審院判事柳田直平の養子となり、牛込加賀町の柳田家に住むようになる。その後、法制局参事官、貴族院書記官長を歴任し、産業組合法を軸に農業の発展を目指す一方で、同41年の九州旅行をきっかけにして、勤務の傍ら民俗学研究の基礎固めに励む。大正8年には官僚生活を辞し、同9年に東京朝日新聞社客員として入社。社説の執筆などを行うも昭和5年に退社。以後、民俗学研究に専念するようになる。
柳田の民俗学研究を時系列的に整理すれば、第一期(1910年代)、第二期(1920年代後半~30年代)、第三期(1940年代後半~50年代)に分けられる。つまり、九州の山間農村部において、水田稲作民ではない焼畑や狩猟をする山人(やまひと)や少数派に属する生業従事者への関心を基にした研究(第一期)、慢性的な不況下にあって、現実の社会問題への解決法を模索した水田稲作民の研究(第二期)、戦時中から戦後にかけて、日本人としての自己認識を促すための研究(第三期)である。また、「山村調査」とよばれる統一項目による全国調査を行った。
民間伝承の会(後の日本民俗学会)、日本方言学会などで主導的役割をはたし、芸術会会員、学士院会員としても活躍、朝日文化賞や文化勲章の栄に浴している。また、小中学校国語教科書の監修にも積極的に取り組んだ。
昭和26年には國學院大學大学院教授に就任、理論神道学を講義した。同32年には蔵書を成城大学へ寄贈、現在は柳田文庫として提供されている。同37年8月心臓衰弱により他界。享年88歳(満87歳)。
なお、明治43年に発表した『遠野物語』は、新宿区市谷加賀町にあった自邸で執筆されたもので、自邸跡には「柳田國男旧居跡説明板」が設置されている。