ホーム新宿区ゆかりの人物データベース

安井 曾太郎やすい そうたろう

東京文化財研究所 所蔵(外部サイト)

プロフィール

生年月日明治21年5月17日(1888年)
没年昭和30年12月14日(1955年)
職業等洋画家
出身京都府京都市中京区大黒町生まれ
ゆかりの地
  • 昭和9年12月~昭和20年3月、昭和22年11月~昭和24年3月 淀橋区下落合【現・新宿区下落合】

経歴

 安井曾太郎は、明治21年京都市中京区大黒町に木綿問屋を営む父元七、母よねの五男として生まれた。彩り豊かな京扇の制作工程に関心を示したという。同31年京都市立商業学校に入学するも、同36年絵画への道を歩むために退学。その後しばらくは商業学校の図画教師に鉛筆画や水彩画を習っていたが、16歳の時、画家・浅井忠(あさいちゅう)主宰の聖護院(しょうごいん)洋画研究所(後の関西美術院)に入所し、浅井と鹿子忌孟郎(かのこぎたけしろう)の指導を受ける。
 やがて、近代美術の本拠地・フランスへの憧れが強くなり、農商務省の海外実業練習生・津田青楓(つだせいふう)への同行を条件に留学が許され、明治40年4月大阪港よりパリに向け出発した。パリではアカデミー・ジュリアンに入学。歴史画家ジャン・ポール・ローランスに師事して頭角をあらわした。この頃、パリ近郊の田園に遊び、《田舎の寺》などを制作している。しだいに師や学校に窮屈さを感じ、同43年には退学して自由研究をはじめる。ロンドン、オランダ、ベルギー、ブルターニュを旅して、《垣》、《村の道》など田園を描いた。
 この頃出会ったセザンヌの芸術は、安井をリアリズムの道に邁進(まいしん)させる原動力となる。大正3年ロンドン経由で帰国。同4年二科展にヨーロッパで制作した44点を陳列、西洋を直接吸収した安井作品は注目を集めた。
 その後、ヨーロッパで身につけた技法が日本では活かせず、苦しい日々を過ごす。同8年の《樹蔭》、同13年の《黒き髪の女》、昭和3年の《早春》などはこの頃の苦渋が現れた作品である。
 安井は「肖像画の名手」と評されるが、昭和4年の《座像》、同5年の《婦人像》は、リアリズムへの確信に基づく手法、すなわち〈安井様式〉が現れた最初の作品として知られる。なお、風景画における〈安井様式〉は、同6年の《外房風景》などに見られる。
 その後も、写実絵画の模範と称された昭和9年の《金蓉(きんよう)》や《T先生の像》、安井が描く肖像画では最良と目される同12年の《深井英五氏像(ふかいえいごしぞう)》などを発表する一方で、帝国美術院会員、帝国芸術院会員、東京美術学校教授、日本美術家連盟会長と主導的な役割を果たし、同27年には文化勲章を受章している。昭和30年12月死去。享年68歳(満67歳)。
 なお、昭和9年12月より東京市淀橋区下落合にアトリエ兼自宅を構え、同20年まで居住していた。
出典:『アート・ギャラリー・ジャパン 20世紀日本の美術 全18巻 14梅原龍三郎/安井曽太郎』 1987年(集英社)、『東京10000歩ウォーキング 文学と歴史を巡る NO.15 新宿区 落合文士村・目白文化村コース』 籠谷典子編著 2008年(明治書院)