
プロフィール
生年月日 | 明治23年3月15日(1890年) |
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没年 | 昭和7年1月18日(1932年) |
職業等 | 小説家・評論家 |
出身 | 京都生まれ |
ゆかりの地 |
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経歴
京都生まれ。父は京都師範学校長を務めた加藤正矩、伯父は東京帝国大学初代総長や貴族院議員を歴任した加藤弘之である。女子高等師範学校付属高等女学校に入学すると小説を読みあさり、自らも「女子文壇」などに短編小説を投稿した。明治43年、三宅雪嶺の甥にあたる理学士三宅恒方と結婚、大正元年にはのちに作家となった長女艶子が誕生した。この頃より雑誌に評論や随筆を書き始め、5年には夏目漱石のもとで創作を学び、漱石没後は小宮豊隆に師事した。
大正10年、夫が亡くなると、愛住町へ移り、文筆で立つことを決意、小説『奔流』で、自我に目覚めた女性を描いて好評を得た。また、評論や婦人問題などにも取り組み、雑誌「ウーマンカレント」を主宰するなど多方面で活躍したが、昭和7年心臓麻痺のため41歳の若さで亡くなった。多摩霊園にあるやす子の墓は東郷青児のデザインによるもので、宇野干代の筆で「人として母として作家として偉大なる女性三宅やす子ここに眠る」と刻まれている。
出典:新宿ゆかりの文学者
大正10年、夫が亡くなると、愛住町へ移り、文筆で立つことを決意、小説『奔流』で、自我に目覚めた女性を描いて好評を得た。また、評論や婦人問題などにも取り組み、雑誌「ウーマンカレント」を主宰するなど多方面で活躍したが、昭和7年心臓麻痺のため41歳の若さで亡くなった。多摩霊園にあるやす子の墓は東郷青児のデザインによるもので、宇野干代の筆で「人として母として作家として偉大なる女性三宅やす子ここに眠る」と刻まれている。