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正宗 白鳥まさむね はくちょう

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プロフィール

生年月日明治12年3月3日(1879年)
没年昭和37年10月28日(1962年)
職業等小説家・創作家・文芸評論家
出身岡山県生まれ
ゆかりの地
  • 明治29年~明治30年 牛込横寺町1
  • 明治30年~明治31年 戸塚村(平山方)
  • 明治31年10月~明治32年10月 牛込喜久井町(西方寺)
  • 明治36年10月~明治37年9月 戸塚村(平山方)
  • 明治44年3月~大正2年5月 天神町75
  • 大正2年5月頃~大正5年9月 矢来町4

経歴

 正宗白鳥(本名・忠夫)は、岡山県和気郡穂波村(現・備前市)に生まれた。明治29年に上京すると、横寺町に下宿生活を始めた。東京専門学校(現・早稲田大学)に入学、市谷の基督教講義所で植村正久の講義を聞き洗礼を受け、その後内村鑑三に強い影響を受けて月曜ごとに講演を聴きに行った。また、近松秋江と出会ったのも早大在学時で、この頃の秋江との交流をのちに「流浪の人」などに描いている。
 卒業後は、早大出版部を経て読売新聞社に入社、明治37年に『寂寞』で作家として出発する。43年には読売新聞を退社、在職中に発表された『何処へ』は、白鳥の代表作となった。44年、結婚すると天神町に新居を構え、その後矢来町に転居し、この間、『徒労』(明治43年)、『微光』(明治43年)、『入江のほとり』(大正4年)などを発表、自然主義の四大家の一人として、藤村、花袋、秋聲らと並んで活躍した。
 震災以後は戯曲などの執筆のほか、「中央公論」に作家論を掲載し、これがのちに『文壇人物評論』『作家論』にまとめられて同時代の読者に広く読まれた。また、昭和11年には、「読売新聞」に掲載した記事がきっかけとなって、トルストイの最後の家出について小林秀雄と一時期論争になるなど、常に鋭い批評を展開した。
 昭和37年、膵臓癌のため83歳で死去。亡くなる直前に牧師植村正久に信仰を告白した白鳥の葬儀は、柏木教会で行われた。
出典:新宿ゆかりの文学者