
プロフィール
生年月日 | 明治36年12月31日(1903年) |
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没年 | 昭和26年6月28日(1951年) |
職業等 | 小説家 |
出身 | 福岡県生まれ |
ゆかりの地 |
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経歴
林芙美子(本名・フミコ)は、福岡県門司市(現・北九州市)に生まれた。幼い時期は九州各地を転々とする生活を送った。大正5年に尾道に落ち着くと、小学校の教師からその 文才を見出され、尾道市立高等女学校に進むと地元の新聞や雑誌に投稿するようになった。
大正11年に上京、株屋の事務員からカフェーの女給まで職を転々とする生活を送った。昭和5年に改造社から出版され、36万部を超えるベストセラーになった『放浪記』は、上京後に綴っていた「歌日記」が原型となっている。昭和元年、長野県下高井郡出身の画学生手塚緑敏と出会うと、芙美子はその穏やかな人柄に惹かれて同棲を始めた。緑敏は芙美子の最大の理解者として、生涯執筆活動を陰で支えた存在である。
昭和5年、芙美子は作家仲間の尾崎翠に誘われて落合三輪に居を定めた。芙美子は落合について、「遠き古里の山川を 思ひ出す心地するなり」(「落合山川記」)と書いているが、当時西武鉄道が開通し住宅地として発展をはじめたこの地を気に入り、以後終戦中の疎開期間を除いて終生落合の地に住んだ。
7年、単身のパリ旅行から帰ると下落合にあった西洋館へ転居、『牡蠣(かき)』『稲妻』など精力的に作品を発表し文壇での地位を確かなものにしていった。さらに14年には西洋館に程近い所に土地を求め新居を建築、16年に移った。その一方で次第に戦時色が濃くなるなか、12年に毎日新聞特派員として南京、上海へ行ったのを皮切りに、翌年「ペン部隊」の一員として漢口に赴くなど従軍作家活動にも参加した。しかし自著の相次ぐ発禁など、次第に創作活動は実質不可能な状態となり、戦火の拡大とともに疎開、以後終戦まではほぼ沈黙を保った。
終戦後は、『吹雪』『うず潮』『浮雲』など戦争によって傷ついた人々を題材にした作品を発表し、多くの読者の共感を得た。しかし、連載を何本も抱え多忙を極めた執筆活動で体を壊し、昭和26年急逝。葬儀では川端康成が葬儀委員長を努め、作家仲間や親交のあった者だけでなく、主婦や学生、会社員など一般の読者が多数参列した。
■林芙美子記念館について
昭和16年、芙美子は下落合(現・中井)に数奇屋風の日本家屋を建てた。設計は、前衛的な建築で知られる山口文象に依頼、自身も建築関係の本を読み、大工を伴って京都見学に訪れるという力の入れようであった。この家を建てるにあたり芙美子は、「東西南北風が吹き抜ける」こと、客間には金をかけず「茶の間と風呂と厠と台所には、十二分に金をかける」(林芙美子「家をつくるにあたって」)ことを条件としたが、人に見せるためではなく、暮らしやすさに徹底的にこだわった生活者の視点は、彼女の文学と共通するものがある。『晩菊』『浮雲』などの晩年の代表作を生み出したこの邸宅は、現在「林芙美子記念館」として一般に公開されている。
なお、この建物は東京都選定歴史的建造物となっている。
出典:新宿ゆかりの文学者
大正11年に上京、株屋の事務員からカフェーの女給まで職を転々とする生活を送った。昭和5年に改造社から出版され、36万部を超えるベストセラーになった『放浪記』は、上京後に綴っていた「歌日記」が原型となっている。昭和元年、長野県下高井郡出身の画学生手塚緑敏と出会うと、芙美子はその穏やかな人柄に惹かれて同棲を始めた。緑敏は芙美子の最大の理解者として、生涯執筆活動を陰で支えた存在である。
昭和5年、芙美子は作家仲間の尾崎翠に誘われて落合三輪に居を定めた。芙美子は落合について、「遠き古里の山川を 思ひ出す心地するなり」(「落合山川記」)と書いているが、当時西武鉄道が開通し住宅地として発展をはじめたこの地を気に入り、以後終戦中の疎開期間を除いて終生落合の地に住んだ。
7年、単身のパリ旅行から帰ると下落合にあった西洋館へ転居、『牡蠣(かき)』『稲妻』など精力的に作品を発表し文壇での地位を確かなものにしていった。さらに14年には西洋館に程近い所に土地を求め新居を建築、16年に移った。その一方で次第に戦時色が濃くなるなか、12年に毎日新聞特派員として南京、上海へ行ったのを皮切りに、翌年「ペン部隊」の一員として漢口に赴くなど従軍作家活動にも参加した。しかし自著の相次ぐ発禁など、次第に創作活動は実質不可能な状態となり、戦火の拡大とともに疎開、以後終戦まではほぼ沈黙を保った。
終戦後は、『吹雪』『うず潮』『浮雲』など戦争によって傷ついた人々を題材にした作品を発表し、多くの読者の共感を得た。しかし、連載を何本も抱え多忙を極めた執筆活動で体を壊し、昭和26年急逝。葬儀では川端康成が葬儀委員長を努め、作家仲間や親交のあった者だけでなく、主婦や学生、会社員など一般の読者が多数参列した。
■林芙美子記念館について
昭和16年、芙美子は下落合(現・中井)に数奇屋風の日本家屋を建てた。設計は、前衛的な建築で知られる山口文象に依頼、自身も建築関係の本を読み、大工を伴って京都見学に訪れるという力の入れようであった。この家を建てるにあたり芙美子は、「東西南北風が吹き抜ける」こと、客間には金をかけず「茶の間と風呂と厠と台所には、十二分に金をかける」(林芙美子「家をつくるにあたって」)ことを条件としたが、人に見せるためではなく、暮らしやすさに徹底的にこだわった生活者の視点は、彼女の文学と共通するものがある。『晩菊』『浮雲』などの晩年の代表作を生み出したこの邸宅は、現在「林芙美子記念館」として一般に公開されている。
なお、この建物は東京都選定歴史的建造物となっている。