
プロフィール
生年月日 | 万延元年12月2日(1860年) |
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没年 | 大正15年11月21日(1926年) |
職業等 | 小説家 |
出身 | 長崎県生まれ |
ゆかりの地 |
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経歴
本名・冽(きよし)。対馬国厳原(つしまのくにいづはら)町(現・長崎県対馬市)に、厳原藩の典医、半井湛四郎の長男として生まれた。明治8年に上京すると尺振八(せきしんぱち)の共立学舎で学び、12年に「西京新聞」に入社、翌年、創設されたばかりの「大阪魁新聞」に移る。しかし廃刊の憂き目に遭い、14年に渡韓、釡山滞在中に京城事変が起こり、朝日新聞特派員として現地の情勢を伝え、その手腕を高く評価された。
明治21年、帰国した桃水は朝日新聞入社、「胡砂吹く風」「大石内蔵之助」など新聞小説を次々連載、人気を博した。この頃に、小説家志望の樋口一葉と出会い、一葉に多大な影響を与えたことでも知られる。
明治37年、日露戦争の記者として従軍、帰国後は大正元年から若宮町に居住、そこで晩年を過ごした。若宮町の住居は、2階建てで、桃水はいつも2階におり、階下から聞こえる父親の歌沢や妻の三味線の音に微笑んでいたという。晩年は朝日新聞の客員として小説を執筆、15年、65歳で亡くなった。
出典:新宿ゆかりの文学者
明治21年、帰国した桃水は朝日新聞入社、「胡砂吹く風」「大石内蔵之助」など新聞小説を次々連載、人気を博した。この頃に、小説家志望の樋口一葉と出会い、一葉に多大な影響を与えたことでも知られる。
明治37年、日露戦争の記者として従軍、帰国後は大正元年から若宮町に居住、そこで晩年を過ごした。若宮町の住居は、2階建てで、桃水はいつも2階におり、階下から聞こえる父親の歌沢や妻の三味線の音に微笑んでいたという。晩年は朝日新聞の客員として小説を執筆、15年、65歳で亡くなった。