
プロフィール
生年月日 | 大正3年9月16日(1914年) |
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没年 | 平成1年5月28日(1989年) |
職業等 | 詩人 |
出身 | 東京都生まれ |
ゆかりの地 |
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経歴
高田敏子は、東京日本橋に生まれた。戦後の約40年を諏訪町で過ごし、そこで日常生活を題材とした詩を多数発表した女流詩人である。女学校を卒業するとすぐに結婚、商事会社に勤める夫と共に中国・台湾などへ渡ったが、昭和23年に諏訪町に移り住んでからは、妻であり、母であり、また洋裁教室の先生であった日常の傍らで詩を書き続けた。
昭和24年、詩人長田恒雄を囲むグループ「コットン」に入り、そこで村野四郎に 認められて本格的に創作に入る。1番の転機は、35年に朝日新聞夕刊の家庭欄に詩の連載をはじめたことである。敏子自身が、「テーマになるものは、ほとんどすべてが、この町の生活から、日々目に触れるさまざまなことから生み出されている」と述べるように、日常生活に根ざした平易な作風に、全国の読者から反響が寄せられた。この仕事を3年間続けたことをきっかけとして、 41年に誰でも入れる詩誌「野火」を創刊、その後23年間141号まで続き、会員数は800人を超えた。
その他、詩作だけではなく合唱曲の作詞なども手がけた。詩集に『雪花石膏(あらばすた)』『人体聖堂』『藤』などがある。没後、旧野火の会会員により、敏子の旧宅にほど近い新宿区立諏訪公園に「かくれんぼ」の詩碑が建立された。
出典:新宿ゆかりの文学者
昭和24年、詩人長田恒雄を囲むグループ「コットン」に入り、そこで村野四郎に 認められて本格的に創作に入る。1番の転機は、35年に朝日新聞夕刊の家庭欄に詩の連載をはじめたことである。敏子自身が、「テーマになるものは、ほとんどすべてが、この町の生活から、日々目に触れるさまざまなことから生み出されている」と述べるように、日常生活に根ざした平易な作風に、全国の読者から反響が寄せられた。この仕事を3年間続けたことをきっかけとして、 41年に誰でも入れる詩誌「野火」を創刊、その後23年間141号まで続き、会員数は800人を超えた。
その他、詩作だけではなく合唱曲の作詞なども手がけた。詩集に『雪花石膏(あらばすた)』『人体聖堂』『藤』などがある。没後、旧野火の会会員により、敏子の旧宅にほど近い新宿区立諏訪公園に「かくれんぼ」の詩碑が建立された。