
プロフィール
生年月日 | 昭和3年11月3日(1928年) |
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没年 | 平成元年2月9日(1989年) |
職業等 | マンガ家・アニメーション作家 |
出身 | 大阪府豊能郡豊中町(現・豊中市)生まれ |
ゆかりの地 |
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経歴
手塚治虫は、昭和3年大阪府豊能郡豊中町(現・豊中市)に長男として生まれる。こどもの頃から昆虫採集やマンガに夢中になる。治虫にとって、両親がマンガに対して寛容だったこと、特に母がマンガの内容を声色を変えて再現してくれたという経験は小さくない。マンガを描き始めたのは小学校の頃からで、「治虫(おさむ)」というペンネームは、この頃手にした『原色千種昆蟲図譜』に「オサムシ」という虫を見つけたことに由来する。
また、昭和8年、5歳の時に兵庫県川辺郡小浜村(現 宝塚市)に転居する。母親に連れられて、宝塚少女歌劇を見ることが多かった。後に制作した「リボンの騎士」は、当時の経験から少女漫画として書いたものである。
大阪府立北野中学校をへて、昭和20年大阪大学附属医学専門部に入学。昭和21年1月「マアチャンの日記帳」で17歳でデビューし、『少國民新聞(のちの毎日小学生新聞)大阪版』に連載される。同22年、酒井七馬(さかいしちま)原作、手塚治虫画の長編マンガ「新寳島(しんたからじま)」が40万部のベストセラーとなり、在学中にしてマンガ家としての地位を確立する。その後、同25年には「ジャングル大帝」を、27年には「鉄腕アトム」を発表し順調に地歩を固める。昭和38年には「鉄腕アトム」が国産初の本格的テレビアニメシリーズとして放送され、高視聴率をあげる。更に、同41年には「ジャングル大帝」が国産初のカラーテレビアニメシリーズとなるなど、アニメーションの分野を開拓することとなる。
卒業翌年の昭和27年に上京。新宿区四谷での下宿からはじまり、トキワ荘、並木ハウスに住みながら、創作活動に励む一方で、同36年には医学博士の学位を取得している。同年6月に手塚治虫プロダクション動画部設立。翌37年に株式会社虫プロダクションとして正式に発足した。同43年に、マンガ制作のため手塚プロダクションを新宿区に設立する。
「マンガの神様」と呼ばれた治虫の代表作は、「鉄腕アトム」「リボンの騎士」、「火の鳥」、「ブッダ」、「ブラック・ジャック」、「三つ目がとおる」など、多数ある。科学・文学・歴史などに対する幅広い知識をもとに、平和・正義の精神を描いた数々の作品は、今なお多くの読者に影響を与えつづけている。平成元年2月胃がんのため死去。
出典:『ぼくのマンガ人生』 手塚治虫著 1997年(岩波新書) 、 『手塚治虫-僕はマンガ家』 手塚治虫著 1992年(日本図書センター)ほか
また、昭和8年、5歳の時に兵庫県川辺郡小浜村(現 宝塚市)に転居する。母親に連れられて、宝塚少女歌劇を見ることが多かった。後に制作した「リボンの騎士」は、当時の経験から少女漫画として書いたものである。
大阪府立北野中学校をへて、昭和20年大阪大学附属医学専門部に入学。昭和21年1月「マアチャンの日記帳」で17歳でデビューし、『少國民新聞(のちの毎日小学生新聞)大阪版』に連載される。同22年、酒井七馬(さかいしちま)原作、手塚治虫画の長編マンガ「新寳島(しんたからじま)」が40万部のベストセラーとなり、在学中にしてマンガ家としての地位を確立する。その後、同25年には「ジャングル大帝」を、27年には「鉄腕アトム」を発表し順調に地歩を固める。昭和38年には「鉄腕アトム」が国産初の本格的テレビアニメシリーズとして放送され、高視聴率をあげる。更に、同41年には「ジャングル大帝」が国産初のカラーテレビアニメシリーズとなるなど、アニメーションの分野を開拓することとなる。
卒業翌年の昭和27年に上京。新宿区四谷での下宿からはじまり、トキワ荘、並木ハウスに住みながら、創作活動に励む一方で、同36年には医学博士の学位を取得している。同年6月に手塚治虫プロダクション動画部設立。翌37年に株式会社虫プロダクションとして正式に発足した。同43年に、マンガ制作のため手塚プロダクションを新宿区に設立する。
「マンガの神様」と呼ばれた治虫の代表作は、「鉄腕アトム」「リボンの騎士」、「火の鳥」、「ブッダ」、「ブラック・ジャック」、「三つ目がとおる」など、多数ある。科学・文学・歴史などに対する幅広い知識をもとに、平和・正義の精神を描いた数々の作品は、今なお多くの読者に影響を与えつづけている。平成元年2月胃がんのため死去。