
プロフィール
生年月日 | 天保10年4月1日(1839年) |
---|---|
没年 | 明治33年8月11日(1900年) |
職業等 | 落語家 |
出身 | 江戸湯島生まれ |
ゆかりの地 |
|
経歴
三遊亭圓朝は、天保10年(1839年)に江戸湯島に生まれた。父は音曲師(おんぎょくし)・初代橘家圓太郎(たちばなやえんたろう)、母はすみ。弘化2年(1845年)橘家小圓太として初高座を踏む。子供噺家(こどもはなしか)として評判となるが、一時、寺子屋通いをしている。父の師でもある二代目三遊亭圓生(さんゆうていえんしょう)に入門、やがて二つ目に昇進するも休席し、嘉永3年(1850年)には池之端の紙屋「葛西屋」に奉公、さらに玄冶店(げんやだな。現・日本橋付近)の絵師・歌川国芳(うたがわくによし)の内弟子など、寄席を離れた時期があった。
安政2年(1855年)、浄瑠璃の一派である新内(しんない)語りの名人・富士松紫朝(ふじまつしちょう)の「朝」をとって「圓朝」と改名した。この頃の圓朝は、歌舞伎芝居をモチーフにした芝居噺を得意とし、大道具・鳴物・衣装引抜きで人気を得る。安政6年(1859年)、トリとして演じる予定であった道具入りの噺を、スケ(助演)として出演してくれた師・圓生が先に演じてしまった。この出来事をきっかけに、師から教わったまま演じているようではいけないと悟り、落語を創作するようになる。『真景累ヶ淵(しんけいかさねがふち)』をはじめ、怪談話や人情噺という文学性の高い作品を生み出していった。
明治維新後は、道具を用いず扇一本の素噺(すばなし)に転じたが、長編人情噺の創作は続けた。明治8年(1875年)の『後開榛名梅ヶ香(おくれざきはるなのうめがか)』、同11年(1878年)の『塩原多助一代記(しおばらたすけいちだいき)』は、自ら取材した成果を作品化したもの。なお、『怪談乳房榎(ちぶさえのき)』は、角筈十二社(つのはずじゅうにそう)の滝が舞台となっている。速記術の普及によって『怪談牡丹灯籠(ぼたんどうろう)』をはじめとする数多くの作品が活字化され、高座で口演された圓朝作品が広く知られることとなった。
明治24年(1891年)には寄席を引退、同33年(1900年)8月死去。享年62歳(満61歳)。台東区谷中の全生庵に葬られた。
自宅跡は新宿区立花園公園となり、昭和61年には新宿区史跡として「三遊亭円朝旧居跡」の碑が建てられた。
出典:『図説 落語の歴史』 山本進著 2006年(河出書房新社)ほか
安政2年(1855年)、浄瑠璃の一派である新内(しんない)語りの名人・富士松紫朝(ふじまつしちょう)の「朝」をとって「圓朝」と改名した。この頃の圓朝は、歌舞伎芝居をモチーフにした芝居噺を得意とし、大道具・鳴物・衣装引抜きで人気を得る。安政6年(1859年)、トリとして演じる予定であった道具入りの噺を、スケ(助演)として出演してくれた師・圓生が先に演じてしまった。この出来事をきっかけに、師から教わったまま演じているようではいけないと悟り、落語を創作するようになる。『真景累ヶ淵(しんけいかさねがふち)』をはじめ、怪談話や人情噺という文学性の高い作品を生み出していった。
明治維新後は、道具を用いず扇一本の素噺(すばなし)に転じたが、長編人情噺の創作は続けた。明治8年(1875年)の『後開榛名梅ヶ香(おくれざきはるなのうめがか)』、同11年(1878年)の『塩原多助一代記(しおばらたすけいちだいき)』は、自ら取材した成果を作品化したもの。なお、『怪談乳房榎(ちぶさえのき)』は、角筈十二社(つのはずじゅうにそう)の滝が舞台となっている。速記術の普及によって『怪談牡丹灯籠(ぼたんどうろう)』をはじめとする数多くの作品が活字化され、高座で口演された圓朝作品が広く知られることとなった。
明治24年(1891年)には寄席を引退、同33年(1900年)8月死去。享年62歳(満61歳)。台東区谷中の全生庵に葬られた。
自宅跡は新宿区立花園公園となり、昭和61年には新宿区史跡として「三遊亭円朝旧居跡」の碑が建てられた。