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関 孝和せき たかかず

一関市博物館 所蔵(外部サイト)

プロフィール

生年月日寛永17年頃(1640年)
没年宝永5年10月24日(1708年)
職業等和算家
出身不明
ゆかりの地

経歴

 関孝和は、幕臣であった内山永明(ながあきら)の次男として生まれた。出生年、出生地ともに不明であり、おそらく寛永17年(1640年)前後、上野国(こうずけのくに)藤岡(現・群馬県藤岡市)、あるいは江戸小石川生まれと推定される。関五郎左衛門の養子となり、関姓を名乗るようになる。
 甲府藩の徳川綱重・綱豊(のちの六代将軍家宣)父子に仕え、勘定吟味役として会計や検地に従事したが、宝永元年(1704年)綱豊が五代将軍綱吉の養子として江戸城・西ノ丸に入城、それに従って孝和も幕臣として御納戸組頭(おなんどくみがしら)となった。
 関孝和といえば「算聖(さんせい)」と称されるように、日本独自の数学・和算の大家として知られる。しかし、どのように数学を学んだのか不明である。和算家の高原吉種(たかはらよしたね)に学んだとも、吉田光由(よしだみつよし)の『塵劫記(じんこうき)』などによって独学したとも言われている。
 延宝2年(1674年)、『発微算法(はつびさんぽう)』を出版する。孝和の生涯で唯一の出版物であるこの『発微算法』は、中国の数学である天元術が示された『楊輝算法(ようきさんぽう)』を筆写して研究した成果で、代数方程式の作り方やその整理法が記されている。当時、天元術に関する最先端の研究に沢口一之の『古今算法記』があった。この書には沢口が解けなかった15問の難題が記録されていたが、この難題に対する解法をまとめたのが『発微算法』であった。和算を大きく進歩させた画期的な数学書といわれる所以である。
 『発微算法』の反響は大きく、沢口の弟子筋にあたる和算家から批判を受けることもあったが、孝和自身は黙々と数学研究に取り組んだ。代数学・方程式論・行列式論・幾何学の研究のほか、『授時発明(じゅじはつめい)』、『授時暦経立成』など天文暦学の著述があるのも注目される。
 子がなかった孝和は、晩年に跡継ぎとして甥の新七郎を迎えて関家の存続をはかった。宝永5年(1708年)死去。墓所は牛込七軒寺町の日蓮宗浄輪寺である。
 「和華に卓越し、古今に瞻前忽後(せんぜんこつご)の妙を見る。ここにおいて世に算聖と称す」と称されたのは、寛保元年(1741年)、没後33年目のことであった。
出典:『江戸の天才数学者 世界を驚かせた和算家たち』 鳴海風著 2012年(新潮社)、『朝日日本歴史人物事典』 1994年(朝日新聞社)ほか