
プロフィール
生年月日 | 昭和4年5月19日(1929年) |
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職業等 | 落語家 |
出身 | 東京都世田谷区太子堂 |
ゆかりの地 |
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経歴
三遊亭金馬(本名・松本龍典(まつもとりゅうすけ))は、昭和4年東京都世田谷区太子堂に父松本笑吉(えみきち)、母喜与(きよ)の次男として生まれた。生後すぐに江東区深川に引っ越し、「みのり屋」という太鼓焼を販売する両親のもとで育つ。予科練を夢見ていたが、柳家金語楼(やなぎやきんごろう)のSP盤レコード「兵隊落語」を聞いたことで落語が好きになり、小学校卒業の時には落語家になると決心する。同16年、東宝名人会専属の三代目三遊亭金馬に入門、三遊亭金時(さんゆうていきんとき)と名乗り、新宿内藤町で前座修行をスタートする。
昭和20年8月には二つ目に昇進、戦後初の二つ目昇進であった。名を三遊亭小金馬と改める。この年の大晦日、ラジオに初出演。同30年、バラエティ番組の元祖といわれるNHKの「お笑い三人組」に一龍斎貞鳳(いちりゅうさいていほう)、江戸家猫八と共に出演、明るい芸風が視聴者に歓迎され高視聴率を維持、10年も続く長寿番組となった。
昭和33年には真打に昇進。この頃から、落語に加えてテレビやラジオの出演依頼が増え始めたが、「ここにいる人たち同様、いやそれ以上にマイクの向こう側にいる人たちを大切にしよう」と丁寧に高座を勤め上げることを信条とした。登場人物のセリフ回しや仕草といった話芸の基だけでもわかりやすい落語を演じ、文七元結、藪入り、淀五郎などの人情話を得意としている。
昭和34年には文化庁芸術祭において奨励賞を受賞、これは創作落語会の公演が評価されたものであった。
昭和42年に師・三代目三遊亭金馬が死去、四代目三遊亭金馬を襲名する。さらに同45年には文化庁芸術祭において「淀五郎」で優秀賞を受賞、平成12年には勲四等瑞宝章を受章した。同19年には新宿区名誉区民に顕彰されている。
昭和54年に完成した国立演芸場の建設には、日本演芸家連合理事長として精力的に活動した。このことを振り返って、「落語家や演芸人がひとつの地位として国に認められたことが嬉しかった」と述べている。その他、落語協会顧問として活躍する。
新宿区には昭和30年前半から居住している金馬は、早稲田大学や新宿界隈を散歩するのが楽しみだという。
出典:『新宿区名誉区民』(新宿区) 平成27年版、『新宿を愛する文化人たち~新宿区名誉区民集~』 2009年(新宿区総務部総務課)、『金馬のいななき 噺家生活六十五年』 三遊亭金馬著 2006年(朝日新聞社
昭和20年8月には二つ目に昇進、戦後初の二つ目昇進であった。名を三遊亭小金馬と改める。この年の大晦日、ラジオに初出演。同30年、バラエティ番組の元祖といわれるNHKの「お笑い三人組」に一龍斎貞鳳(いちりゅうさいていほう)、江戸家猫八と共に出演、明るい芸風が視聴者に歓迎され高視聴率を維持、10年も続く長寿番組となった。
昭和33年には真打に昇進。この頃から、落語に加えてテレビやラジオの出演依頼が増え始めたが、「ここにいる人たち同様、いやそれ以上にマイクの向こう側にいる人たちを大切にしよう」と丁寧に高座を勤め上げることを信条とした。登場人物のセリフ回しや仕草といった話芸の基だけでもわかりやすい落語を演じ、文七元結、藪入り、淀五郎などの人情話を得意としている。
昭和34年には文化庁芸術祭において奨励賞を受賞、これは創作落語会の公演が評価されたものであった。
昭和42年に師・三代目三遊亭金馬が死去、四代目三遊亭金馬を襲名する。さらに同45年には文化庁芸術祭において「淀五郎」で優秀賞を受賞、平成12年には勲四等瑞宝章を受章した。同19年には新宿区名誉区民に顕彰されている。
昭和54年に完成した国立演芸場の建設には、日本演芸家連合理事長として精力的に活動した。このことを振り返って、「落語家や演芸人がひとつの地位として国に認められたことが嬉しかった」と述べている。その他、落語協会顧問として活躍する。
新宿区には昭和30年前半から居住している金馬は、早稲田大学や新宿界隈を散歩するのが楽しみだという。