
プロフィール
生年月日 | 明治20年10月20日(1887年) |
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没年 | 昭和3年2月7日(1928年) |
職業等 | 歌人・教育家・社会活動家 |
出身 | 京都府生まれ |
ゆかりの地 |
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経歴
九条武子は、西本願寺21代宗主・大谷光尊(こうそん)の次女として生まれた。母はその側室藤子である。
明治42年、義姉籌子(かずこ)の弟にあたる九条良致(よしむね)(貞明皇后の弟)と結婚、夫の留学が決定すると、その見送りと新婚旅行をかねて欧州へ渡るが、一人で勉強がしたいという夫の意志により、武子は約1年で単身帰国することになる。
帰国後、歌人佐佐木信綱に師事、夫の帰りを待つ寂しい日々の思いを短歌に詠み、 大正9年に歌集『金鈴』が出版されると、才色兼備の深窓歌人の名はたちまち広まった。
同年、夫の帰国により十余年の独居生活を終え、西本願寺築地別院で生活をはじめた。しかし、関東大震災で住居や衣類、 700首の未発表歌が焼かれてしまったため、被害の少なかった落合の地に移り、質素な生活を続けながら作歌生活を送った。 昭和2年に刊行された随想集『無憂華(むゆうげ)』は、落合において書かれたものであり、当時べストセラーとなった。
また社会事業への貢献も大きく、義姉籌子を補佐して仏教婦人会を創設、早世した籌子の後を継いで本部長として活動を続けた。さらに、京都女子専門学校(現・京都 女子大学)の設立や、震災による負傷者や孤児の救援活動(江東区あそか病院の設立)にも尽力した。
昭和3年2月、無理がたたり敗血症により亡くなった。
おほいなるもののちからにひかれゆく。
わがあしあとのおほつかなしや
出典:新宿ゆかりの文学者
明治42年、義姉籌子(かずこ)の弟にあたる九条良致(よしむね)(貞明皇后の弟)と結婚、夫の留学が決定すると、その見送りと新婚旅行をかねて欧州へ渡るが、一人で勉強がしたいという夫の意志により、武子は約1年で単身帰国することになる。
帰国後、歌人佐佐木信綱に師事、夫の帰りを待つ寂しい日々の思いを短歌に詠み、 大正9年に歌集『金鈴』が出版されると、才色兼備の深窓歌人の名はたちまち広まった。
同年、夫の帰国により十余年の独居生活を終え、西本願寺築地別院で生活をはじめた。しかし、関東大震災で住居や衣類、 700首の未発表歌が焼かれてしまったため、被害の少なかった落合の地に移り、質素な生活を続けながら作歌生活を送った。 昭和2年に刊行された随想集『無憂華(むゆうげ)』は、落合において書かれたものであり、当時べストセラーとなった。
また社会事業への貢献も大きく、義姉籌子を補佐して仏教婦人会を創設、早世した籌子の後を継いで本部長として活動を続けた。さらに、京都女子専門学校(現・京都 女子大学)の設立や、震災による負傷者や孤児の救援活動(江東区あそか病院の設立)にも尽力した。
昭和3年2月、無理がたたり敗血症により亡くなった。
おほいなるもののちからにひかれゆく。
わがあしあとのおほつかなしや