
プロフィール
生年月日 | 明治17年2月20日(1884年) |
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没年 | 昭和3年3月5日(1928年) |
職業等 | 評論家・ロシア文学者 |
出身 | 愛媛県生まれ |
ゆかりの地 |
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経歴
別号・天弦。愛媛県に生まれ、中学時代より文学に親しみ、「少年文集」「中学世界」などに詩や小説を投稿した。
明治35年東京専門学校(現・早稲田大学)文学予科に入学すると、坪内逍遙や島村抱月らの教えを受けた。卒業後、島村抱月の主宰する「早稲田文学」記者となり、翌年には早大予科の講師、のち本科教授となった。
大正4年ロシアに留学、近代ロシア文学を学ぶが、ロシア革命勃発により帰国。9年に早稲田大学文学部ロシア文学科が新設されると、その主任教授となった。後に文学部長となり、坪内逍遥 、島村抱月に続く名部長とされた 。しかし13年、 突如その職を辞すとロシアに再度渡り、翌年帰国するとその後は亡くなるまで専ら文芸批評を書いた。
学生時代の詩「テニソンの詩」は名詩と評されたが、その後は文芸批評を主とし、『 生の要求と芸術』『無限の道』などを著した。また死後に『露西亜文学の研究』が刊行された。
出典:新宿ゆかりの文学者
明治35年東京専門学校(現・早稲田大学)文学予科に入学すると、坪内逍遙や島村抱月らの教えを受けた。卒業後、島村抱月の主宰する「早稲田文学」記者となり、翌年には早大予科の講師、のち本科教授となった。
大正4年ロシアに留学、近代ロシア文学を学ぶが、ロシア革命勃発により帰国。9年に早稲田大学文学部ロシア文学科が新設されると、その主任教授となった。後に文学部長となり、坪内逍遥 、島村抱月に続く名部長とされた 。しかし13年、 突如その職を辞すとロシアに再度渡り、翌年帰国するとその後は亡くなるまで専ら文芸批評を書いた。
学生時代の詩「テニソンの詩」は名詩と評されたが、その後は文芸批評を主とし、『 生の要求と芸術』『無限の道』などを著した。また死後に『露西亜文学の研究』が刊行された。