
プロフィール
生年月日 | 明治2年3月5日(1869年) |
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没年 | 明治41年6月15日(1908年) |
職業等 | 小説家 |
出身 | 大阪生まれ |
ゆかりの地 |
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経歴
川上眉山(本名・亮(あきら))は大阪に生まれ、幼時に父母に伴われて上京、家は本郷春木町に下宿屋を営んでいた。明治17年東大予備門に入学すると、尾崎紅葉、山田美妙、巌谷小波らを知り、19年には硯友社の同人となった。同年12月、烟波山人の筆号で「我楽多文庫」第10集に処女作「雪の玉水」を掲載、その後「青嵐」を読売新聞に連載し、好評を得て眉山の人気はしだいに高まり、退学して作家となる意思を固めた。
しかし、次第に硯友社の戯作調に飽き足らぬようになり、平田禿木(とくぼく)を介して「文学界」同人の島崎藤村などに近づき、浪漫的な傾向を深めた。眉山の名を高めたのは、明治28年『書記官』『うらおもて』といった作品で、これらは観念小説として評価を得た。
しかし次第に文学的な行きづまりをみせ、明治41年6月15日、牛込天神町の自宅で、左の頚動脈を剃刀で切断し、自殺を図った。夫人が発見した際は、久留米絣に白の帯を締め、殆ど坐ったままの姿で横になっていたという。この自殺をした日は、浅草新谷町の萬隆寺に転居する予定であった。
硯友社時代の仲間である巌谷小波は、
かきよせて詮なき罌粟(けし)をおしみけり
罌粟(けし)は脆(もろ)い花である。君は脆い人であった。
(「太陽」明治41年)とその死を悼んだ。
出典:新宿ゆかりの文学者
しかし、次第に硯友社の戯作調に飽き足らぬようになり、平田禿木(とくぼく)を介して「文学界」同人の島崎藤村などに近づき、浪漫的な傾向を深めた。眉山の名を高めたのは、明治28年『書記官』『うらおもて』といった作品で、これらは観念小説として評価を得た。
しかし次第に文学的な行きづまりをみせ、明治41年6月15日、牛込天神町の自宅で、左の頚動脈を剃刀で切断し、自殺を図った。夫人が発見した際は、久留米絣に白の帯を締め、殆ど坐ったままの姿で横になっていたという。この自殺をした日は、浅草新谷町の萬隆寺に転居する予定であった。
硯友社時代の仲間である巌谷小波は、
かきよせて詮なき罌粟(けし)をおしみけり
罌粟(けし)は脆(もろ)い花である。君は脆い人であった。
(「太陽」明治41年)とその死を悼んだ。