
プロフィール
生年月日 | 大正4年3月16日(1915年) |
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没年 | 平成9年7月26日(1997年) |
職業等 | 数学者 |
出身 | 東京府下淀橋町柏木生まれ |
ゆかりの地 |
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経歴
小平邦彦は、大正4年東京府下淀橋町柏木に父権一、母いちの長男として生まれた。幼い頃から数に興味を示し、豆を数えては遊んでいたという。
小学校卒業後、東京府立第五中学校(現・小石川高等学校)に進学、たまたま手にとった藤原松三郎の『代数学』を読んだことで数学を意識するようになった。
エンジニア志望であったが、第一高等学校理科乙類(イ)に進学し、その後東京帝国大学理学部数学科に進学(昭和10年)、さらに「数学と物理の関係がますます密接になりそうに見えたこと」を理由に同物理学科に再入学した。卒業後、同数学科講師(同16年)、東京文理科大学理学部数学科助教授(同17年)、東京帝国大学物理学部物理学科助教授(同19年)、東京大学理学部数学科教授(同26年)を歴任する。
昭和24年には数学における頭脳流出第2号として渡米。これは、紙不足の日本では出版できなかった自身の博士論文「リーマン多様体上の調和テンソル場」を、数学者角谷静夫の好意によってアメリカの専門誌に投稿したところ、ドイツの数学者ヘルマン・ワイルの目にとまったことによる。以後19年にわたる海外生活では、プリンストン高級研究所研究員、ジョーンズ・ホプキンス大学客員教授、プリンストン大学助教授、同教授、ジョーンズ・ホプキンス大学教授、スタンフォード大学教授を歴任、同29年にはオランダ・アムステルダムで開催された国際数学者会議において、日本人として初のフィールズ賞を受賞した。同32年にはアメリカの数学者ドナルド・C・スペンサーとの共同研究により学士院賞を受賞、さらに文化勲章をうけている。
帰国後、再び東京大学理学部数学科教授となり(昭和43年)、昭和46年には理学部長(同48年まで)に選出、同50年3月定年退官、同年4月より学習院大学理学部教授となる(同60年まで)。この間、ゲッチンゲン学士院名誉会員、米国科学学士院客員、米国芸術科学院名誉会員、ロンドン数学会名誉会員、国際数学者会議運営委員長としても活躍した。同50年には長年の研究業績により藤原賞を、同60年にはイスラエル・ウルフ財団のウルフ賞を受賞した。晩年、数学教育に関心を示し、小学生には「基礎教科の国語と算数を十分時間をかけて教える」ことを主張した。平成9年に新宿区名誉区民として顕彰される。同年7月逝去。享年83歳(満82歳)。
出典:『新宿区名誉区民』 平成27年版(新宿区)、『新宿を愛する文化人たち~新宿区名誉区民集~』 2009年(新宿区総務部総務課)、『ボクは算数しか出来なかった』 小平邦彦著 1987年(日経サイエンス社)ほか
小学校卒業後、東京府立第五中学校(現・小石川高等学校)に進学、たまたま手にとった藤原松三郎の『代数学』を読んだことで数学を意識するようになった。
エンジニア志望であったが、第一高等学校理科乙類(イ)に進学し、その後東京帝国大学理学部数学科に進学(昭和10年)、さらに「数学と物理の関係がますます密接になりそうに見えたこと」を理由に同物理学科に再入学した。卒業後、同数学科講師(同16年)、東京文理科大学理学部数学科助教授(同17年)、東京帝国大学物理学部物理学科助教授(同19年)、東京大学理学部数学科教授(同26年)を歴任する。
昭和24年には数学における頭脳流出第2号として渡米。これは、紙不足の日本では出版できなかった自身の博士論文「リーマン多様体上の調和テンソル場」を、数学者角谷静夫の好意によってアメリカの専門誌に投稿したところ、ドイツの数学者ヘルマン・ワイルの目にとまったことによる。以後19年にわたる海外生活では、プリンストン高級研究所研究員、ジョーンズ・ホプキンス大学客員教授、プリンストン大学助教授、同教授、ジョーンズ・ホプキンス大学教授、スタンフォード大学教授を歴任、同29年にはオランダ・アムステルダムで開催された国際数学者会議において、日本人として初のフィールズ賞を受賞した。同32年にはアメリカの数学者ドナルド・C・スペンサーとの共同研究により学士院賞を受賞、さらに文化勲章をうけている。
帰国後、再び東京大学理学部数学科教授となり(昭和43年)、昭和46年には理学部長(同48年まで)に選出、同50年3月定年退官、同年4月より学習院大学理学部教授となる(同60年まで)。この間、ゲッチンゲン学士院名誉会員、米国科学学士院客員、米国芸術科学院名誉会員、ロンドン数学会名誉会員、国際数学者会議運営委員長としても活躍した。同50年には長年の研究業績により藤原賞を、同60年にはイスラエル・ウルフ財団のウルフ賞を受賞した。晩年、数学教育に関心を示し、小学生には「基礎教科の国語と算数を十分時間をかけて教える」ことを主張した。平成9年に新宿区名誉区民として顕彰される。同年7月逝去。享年83歳(満82歳)。