
プロフィール
生年月日 | 明治39年5月9日(1906年) |
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没年 | 平成13年11月5日(2001年) |
職業等 | 書家 |
出身 | 北海道松前郡雨垂石(あまたれいし)村(現・松前町静浦)生まれ |
ゆかりの地 |
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経歴
金子鷗亭(本名・賢藏(けんぞう))は、明治39年北海道松前郡雨垂石(あまたれいし)村(現・松前町静浦)に父賢治、母カクの四男として生まれる。尋常小学校4年生の時に習字を評価され、書に関心を持つようになる。函館師範学校卒業後(昭和4年)、札幌で学校教師となったが、書を志す仲間と共に書会に参加し、書家・比田井天来(ひだいてんらい)に出会う。天来の「書を本格的に学ぶためには東京に出るべきだ」との後押しをうけて上京、改めて天来に師事する(同7年)。
上京後は古典による書を研究する一方、「書之研究」誌に「新調和体論」を発表して新しい書の理念を探求、昭和10年には『書之理論及指導法』を刊行し、伝統的書法の継承を超え、時代を反映する芸術としての書を提唱する。
昭和22年には毎日書道展の創設を建議し、その開催に尽力する。さらに門人らと随?(ずいおう)社を結成して(同24年)後進の指導に日本全国をめぐり、同39年には創玄書道会を設立して会長に就任する。このような現代書の普及と後進の育成に力をいれつつ、漢字と仮名との調和の中に創意あふれる多様な芸術表現を目指し、近代詩文書作家協会を設立(同48年)、会長として近代詩文書運動を推進した。
昭和41年、第9回日展出品作「丘壑寄懐抱(きゅうがくかいほうをよす)」で文部大臣賞を受賞、翌42年、同作品により日本芸術院賞を受賞する。同62年には「交脚弥勒(こうきゃくみろく)」により第28回毎日芸術賞を受賞する。
日展では、昭和35年に会員となって以降、11回にわたって審査員をつとめ(同56年まで)、理事、常任理事、参事として活躍した。
鷗亭にとって、いまひとつの大切な仕事に戦没者追悼式の標柱「全国戦没者追悼之標」の揮毫(きごう)がある。昭和38年から平成5年まで32回にわたって続け、揮毫者として体力気力の保持につとめた。
長年の功績により、勲三等旭日中綬章(昭和58年)、文化功労者(同62年)、北海道開発功労賞(平成元年)、文化勲章(同2年)の栄に浴し、さらに東京都名誉都民(同6年)、新宿区名誉区民(同9年)として顕彰される。
昭和37年より下落合に居住し、現代書の普及と後進の育成に励んだ鷗亭は、「全国戦没者追悼之標」揮毫のために健康管理を怠らず、毎朝下落合付近を歩くことを日課としていた。平成13年永眠。享年96歳(満95歳)。