
プロフィール
生年月日 | 嘉永3年6月27日(1850年) |
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没年 | 明治37年9月26日(1904年) |
職業等 | 小説家、日本研究家、紀行作家 |
出身 | ギリシャ・レフカダ島生まれ |
ゆかりの地 |
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経歴
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は1850年、ギリシャのレフカダ島レフカダにアイルランド人軍医補とギリシャ人の母の間に生まれた。幼名パトリキオ・レフカディオス・ハーン。2歳のとき父の実家があるアイルランドのダブリンに行き大叔母に育てられた。1869(明治3)年アメリカに渡りさまざまな職業を経て雑誌記者となる。また、西インド諸島のクレオール文化を研究、著作を刊行した。
明治23年40歳の時、日本に関する記事を書くためアメリカより来日。島根県尋常中学、第五高等学校(熊本県)の英語教師などをした後、29年、東京帝国大学文科大学の英文学講師となり市谷冨久町21番地(現・新宿区富久町)に住んだ。29年松江藩士の娘小泉セツと正式に結婚し日本に帰化、小泉八雲となる。八雲は出雲の国にかかる枕詞「八雲立つ」からとったといわれている。明治35年大久保村西大久保265番地(現・新宿区大久保)へ移転。明治37年早稲田大学講師となるが、同年9月心臓発作のため死去する。代表書は日本の古典から題材を得て書かれた「耳なし芳一」「ろくろ首」などを収めた『怪談』、『骨董』、日本についての研究書『知られざる日本の面影』『日本 ― 一つの解釈』、エッセイ集『こころ』など。
富久町の成女学園庭には旧居跡の石碑が建っている(区指定史跡)。八雲は隣の自証院(瘤寺)が好きでよく散歩していた。『異国情緒と回顧』には自証院の門の写真を掲載している。東隣の道林寺(廃寺)の住職から聞いた話は『骨董』のなかにいかしている。また、早稲田南町にある宗参寺の墓地が舞台になった話を「虫の研究」として『怪談』に掲載している。
大久保の家については区立大久保小学校正面脇に終焉の地の石碑が建っている(区指定史跡)。すぐ近くには新宿区とレフカダ町の友好都市提携を記念して平成5年に開園した八雲公園がある。公園にはギリシャ政府から送られた八雲の銅像が建つ。また、妻・セツの「思い出の記」や、息子・一雄の「父「八雲」を憶う」などの回想記には、八雲の区内在住時の思い出が書かれている。