
プロフィール
生年月日 | 明治4年7月15日(1871年) |
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没年 | 明治41年6月23日(1908年) |
職業等 | 小説家・劇作家 |
出身 | 千葉県生まれ |
ゆかりの地 |
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経歴
国木田独歩(本名・哲夫)は千葉県銚子に生まれ、幼少期、東京・岩国・広島・萩などで暮らし、旧制山口中学に入学したが、明治20年中退して上京、翌年東京専門学校(現・早稲田大学)英語科に入学した。在学中は早稲田界隈に下宿、24年3月に退学、この間キリスト教に関心を持つと麹町教会に通い、植村正久により受洗した。その後、山口・大分・東京などで教員や新聞記者として働き、日清戦争では従軍記者として軍艦千代田に乗り組み『愛弟通信』を書き送った。
明治30年頃から新体詩を作りはじめ、田山花袋や柳田国男らと「抒情詩」を編み『独歩吟』を発表、同年処女小説『源叔父』も発表した。33年5月から1年半四谷霞岳町、現在の都立明治公園付近に居住、この時期には報知新聞社や民声新報社に籍を置き、第一文集『武蔵野』を出版している。短編小説『牛肉と馬鈴薯』を発表したのもこの時期である。
その後、明治37年近事画報社に招かれ編集の仕事をしている。日露戦争が始まり同社の「戦時画報」はよく売れ、独歩は束の間の経済的安定を得て、第二文集『独歩集』、第三文集『運命』をたて続けに発表している。しかし、39年に起こした独歩社の経営に失敗、失意の独歩は翌年西大久保に移り住んだ。この頃より健康を害し、湯河原や那珂湊で療養し、41年茅ヶ崎の南湖院で37年の生涯を閉じた。
出典:新宿ゆかりの文学者
明治30年頃から新体詩を作りはじめ、田山花袋や柳田国男らと「抒情詩」を編み『独歩吟』を発表、同年処女小説『源叔父』も発表した。33年5月から1年半四谷霞岳町、現在の都立明治公園付近に居住、この時期には報知新聞社や民声新報社に籍を置き、第一文集『武蔵野』を出版している。短編小説『牛肉と馬鈴薯』を発表したのもこの時期である。
その後、明治37年近事画報社に招かれ編集の仕事をしている。日露戦争が始まり同社の「戦時画報」はよく売れ、独歩は束の間の経済的安定を得て、第二文集『独歩集』、第三文集『運命』をたて続けに発表している。しかし、39年に起こした独歩社の経営に失敗、失意の独歩は翌年西大久保に移り住んだ。この頃より健康を害し、湯河原や那珂湊で療養し、41年茅ヶ崎の南湖院で37年の生涯を閉じた。