
プロフィール
生年月日 | 明治26年5月15日(0年) |
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没年 | 昭和56年2月11日(0年) |
職業等 | 婦人運動家 政治家(元参議院議員) |
出身 | 愛知県 |
ゆかりの地 |
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経歴
市川房枝は、愛知県中島郡明地村(現、一宮市)に生まれる。県立女子師範学校を卒業し、小学校の教員、その後は名古屋新聞社(現、中日新聞)の記者となった。記者時代に世間の風潮であった大正デモクラシーを感じたいとの思いから大正7年に恩師を頼って上京した。その後、アメリカに在住していた兄を通じて、四谷区南伊賀町で語学塾を開講していた山田嘉吉・わか夫妻と面識を持ち、同町内に暮らすこととした。同塾において英語の勉強を続け、3年後の大正10年に渡米した。渡米以前の大正8年には、山田わかを通じて知り合いとなっていた平塚らいてうとともに新婦人協会を設立し、女性が政治的な結社へ加入したり、演説会に参加あるいは主催したりすることを禁じた治安警察法第5条の改正を要求した。
大正13年に帰国すると、「婦人参政権獲得期成同盟会」を結成、さらには翌年、男性の普通選挙法の公布にあわせて同盟会を「婦選獲得同盟」と改め、婦人参政権の要求を続けた。このとき、行動を共にしていたのが、仕事を通して知り合った『主婦之友』社の記者金子しげりで、彼女に誘われて婦人参政権運動へ参加した。なお、同13年には国際労働機関(ILO)東京支局の職員となっている。
しげりとの共同生活は、地の利と部屋代を考えて決めたアパートが四谷区坂町だったが、後に四谷区仲町へ転居し、両者の主とする活動の場が異なるようになり、房枝は淀橋区の友人宅へ住居を変更した。
昭和12年に婦選獲得同盟の事務所を四谷区尾張町へ移し、住居も事務所の隣の部屋へ引っ越した。しかし、それも昭和20年4月に空襲で焼け出されてしまい、新宿を離れることとなった。
敗戦後、すぐに戦後対策婦人委員会を結成して、婦人参政権要求運動を再開したものの、昭和22年には公職追放の身となり、3年半後に復帰した。その後も参議院選挙で当選を続け、昭和55年の選挙でトップ当選を果たしたものの、翌年没した。
なお彼女の活動拠点であった婦選会館は、住所は渋谷区だが、新宿駅南口に近い場所にある。
出典 折井美耶子・新宿女性史研究会編『新宿 歴史に生きた女性一〇〇人』(ドメス出版2005)『日本大百科全書』『日本人名大辞典』『国史大辞典』新宿区地域女性史編纂委員会『新宿ゆかりの女性たちⅡ』(1995)
大正13年に帰国すると、「婦人参政権獲得期成同盟会」を結成、さらには翌年、男性の普通選挙法の公布にあわせて同盟会を「婦選獲得同盟」と改め、婦人参政権の要求を続けた。このとき、行動を共にしていたのが、仕事を通して知り合った『主婦之友』社の記者金子しげりで、彼女に誘われて婦人参政権運動へ参加した。なお、同13年には国際労働機関(ILO)東京支局の職員となっている。
しげりとの共同生活は、地の利と部屋代を考えて決めたアパートが四谷区坂町だったが、後に四谷区仲町へ転居し、両者の主とする活動の場が異なるようになり、房枝は淀橋区の友人宅へ住居を変更した。
昭和12年に婦選獲得同盟の事務所を四谷区尾張町へ移し、住居も事務所の隣の部屋へ引っ越した。しかし、それも昭和20年4月に空襲で焼け出されてしまい、新宿を離れることとなった。
敗戦後、すぐに戦後対策婦人委員会を結成して、婦人参政権要求運動を再開したものの、昭和22年には公職追放の身となり、3年半後に復帰した。その後も参議院選挙で当選を続け、昭和55年の選挙でトップ当選を果たしたものの、翌年没した。
なお彼女の活動拠点であった婦選会館は、住所は渋谷区だが、新宿駅南口に近い場所にある。