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石垣 綾子いしがき あやこ

プロフィール

生年月日明治36年9月21日(0年)
没年平成8年11月12日(0年)
職業等評論家 社会運動家
出身東京都
ゆかりの地
  • 明治36年 市谷加賀町
  • 明治38年 早稲田南町
  • 昭和26年 百人町

経歴

石垣綾子は、科学者の父田中三四郎と母治子の二女として生まれ、2歳のときに生誕地である市谷加賀町から早稲田南町に移った。家の表門を出て右に曲って3軒か4軒か先のところに夏目漱石が居住しており、彼の三女とは小学校で同級生だったという。母を4歳で失い、その後の継母も病弱で数年後に亡くなったうえに、父も岡山と山形の旧制高校で教えていたため、あまり家に居なかったらしい。
府立第一高女(現、東京都立白?高等学校・附属中学校)を卒業し、自由学園高等科に入学したところ、講演に訪れた富本一枝(尾竹紅吉)を通じて平塚らいてうとも面識を持った。その後、早稲田大学の聴講生となり、大山郁夫の社会問題研究会に参加し、アナーキスト詩人・青柳優と恋に落ちた。
大正15年の夏、ワシントンに赴任する姉一家に同行し、翌年には単身でニューヨークに移住した。コロンビア大学の聴講生となっていたときに画家の石垣栄太郎と出会い、結婚したが、その後二児を失っている。そうした中でも自由と反ファシズムの運動に関わり、後にピューリッツァー賞やノーベル文学賞を受賞したパール・バック、作家で新聞記者でもあったアグネス・スメドレーとも出会っている。第二次大戦中は、米軍戦時情報局で日本向けの反戦放送のビラを作ったりしていた。
戦後、アメリカ合衆国で発生した反共産主義運動によって国外退去令が発布されたため、昭和26年夏に帰国し、新宿百人町で夫の母と再会した。昭和30年『婦人公論』に発表した「主婦という第二職業論」が主婦論争の発端となった。その後も多彩な活動を繰り広げた。拠点は三鷹台であったが、後に目白に移した。その後も執筆活動に勤しんでいたが、満93歳で没した。
 
出典 石垣綾子『わが愛の木に花みてり』(婦人画報社1987)新宿地域女性史編纂委員会『新宿ゆかりの女性たちⅡ』(1995)折井美耶子・新宿女性史研究会編『新宿歴史に生きた女性100人』(ドメス出版2005)『日本大百科全書』『日本人名大辞典』石垣綾子『我が愛 流れと足跡』(新潮社1982)