
プロフィール
生年月日 | 明治36年7月27日(1903年) |
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没年 | 平成8年10月8日(1996年) |
職業等 | 詩人 |
出身 | 大阪府 |
ゆかりの地 |
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経歴
小野十三郎は、大阪市で生まれた。東洋大学を8ヶ月で中退した後、大正12年にアナキスト詩人たちの著した詩誌『赤と黒』に感銘を受けてその活動に参加するようになり、そこで萩原恭次郎や壺井繁治・岡本潤らと交流を持つようになった。
昭和2年2月、日本プロレタリア芸術聯盟が雑誌『文芸戦線』を機関誌としたことに対抗して創刊された『文芸解放』の創刊メンバーの一員となる。同5年2月には、秋山清とともに上落合で弾道社を設立し、マルキシズムに対抗したアナキシズム文学運動を展開するために雑誌『弾道』を創刊し、同誌に寄稿する際には、「高山慶太郎」という名前を用いることもあった。
以後、拠点を関西に移して多くの若い詩人たちを育てた。その際、近代化で重工業中心へと移り変わる大阪を日本そのものに見立てた詩を書き続けた。
戦後、昭和21年の春に秋山清や金子光晴・岡本潤の4人で詩誌『コスモス』を創刊し、帝塚山学院短期大学や大阪文学学校で教鞭を執り、特に大阪文学学校では校長もつとめた。
平成8年に没し、同11年に大阪文学協会の主催で小野十三郎の詩業を記念した「小野十三郎賞」が創設され、現在でも優れた詩や詩評論を行った執筆者に賞が贈られている。享年93歳。
『半分開いた窓』(太平洋詩人協会1926)『拒絶の木』(1973)
出典 『日本大百科全書』『日本人名大辞典』目白学園女子短期大学国語国文科研究室『落合文士村』(1983)『定本小野十三郎全詩集』(小野十三郎1979)
昭和2年2月、日本プロレタリア芸術聯盟が雑誌『文芸戦線』を機関誌としたことに対抗して創刊された『文芸解放』の創刊メンバーの一員となる。同5年2月には、秋山清とともに上落合で弾道社を設立し、マルキシズムに対抗したアナキシズム文学運動を展開するために雑誌『弾道』を創刊し、同誌に寄稿する際には、「高山慶太郎」という名前を用いることもあった。
以後、拠点を関西に移して多くの若い詩人たちを育てた。その際、近代化で重工業中心へと移り変わる大阪を日本そのものに見立てた詩を書き続けた。
戦後、昭和21年の春に秋山清や金子光晴・岡本潤の4人で詩誌『コスモス』を創刊し、帝塚山学院短期大学や大阪文学学校で教鞭を執り、特に大阪文学学校では校長もつとめた。
平成8年に没し、同11年に大阪文学協会の主催で小野十三郎の詩業を記念した「小野十三郎賞」が創設され、現在でも優れた詩や詩評論を行った執筆者に賞が贈られている。享年93歳。
『半分開いた窓』(太平洋詩人協会1926)『拒絶の木』(1973)