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尾崎 紅葉おざき こうよう

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プロフィール

生年月日慶応3年12月16日(1867年)
没年明治36年10月30日(1903年)
職業等小説家
出身東京都生まれ
ゆかりの地

経歴

 尾崎紅葉(本名・徳太郎)は江戸芝中門前町(現・港区浜松町)に生まれた。父は根付師。大学予備門のとき石橋思案や山田美妙に出会い、文学結社「硯友社」を興し雑誌「我楽多文庫」を創刊する。明治22年『二人比丘尼色懺悔(ににんびくにいろざんげ)』が評価され読売新聞の新聞小説を書き始める。この年の12月より区内の牛込北町に居住、明治24年25歳の時に牛込横寺町に移ると、そこを十千万堂(とちまんどう)と号した。
 この地で『心の闇』『青葡萄』『多情多恨』などを著したが、明治36年10月30日連載中の『金色夜叉』の完結を見ずに没した。門下生に泉鏡花、小栗風葉、徳田秋聲などがいる。
 最後に住んだ横寺町の家には、紅葉がふすまの下張りにした俳句が二句残されていた。「初冬やひげそりたてのをとこぶり」「はしたもののいはひ過ぎたる雑煮かな」というものである。
出典:新宿ゆかりの文学者