
プロフィール
生年月日 | 明治14年8月1日 (1881年) |
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没年 | 昭和31年11月21日(1956年) |
職業等 | 美術史家・歌人 |
出身 | 新潟県生まれ |
ゆかりの地 |
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経歴
會津八一は新潟市古町通り五番地に父政次郎、母イクの次男として生まれる。政次郎は越後の豪農市島家の一族、イクは地元の料亭會津屋の長女。新潟中学時代から俳句をはじめ、地方新聞の俳句選者となる。明治35年東京専門学校(現・早稲田大学)文科入学、英文学を学ぶ。卒業後新潟県中頸城郡板倉町の有恒学舎の英語教師となる。43年恩師坪内逍遥の招きによって早稲田中学の教員となり上京。大正11年8月、落合村下落合1296番地、落合第一小学校裏にあった市島春城の別荘に移住、秋艸堂(しゅうそうどう)と名づける。秋艸堂という名は、それまで住んでいた小石川区高田豊川町の住居に名づけたものであったが、落合の住居もそれを踏襲、庭には草がぼうぼうと生えその名に相応しかったという。独身で暮らしていたので、部屋の中は集めた書籍、研究資料の器物が散乱していた。八一はこの家にたびたび学生を招き、勉強会を行った。
大正13年には奈良の風物を詠んだ歌集『南京新唱』を刊行。14年からは早稲田大学付属早稲田高等学院教授となる。15年からは早稲田大学文学部講師を兼ね、昭和6年からは文学部教授となり、東洋美術の講義、研究を行い、文学博士の学位を受ける。
昭和10年7月、およそ300メートル離れた下落合3丁目1321番地、分譲住宅地落合文化村内に転居。この家を滋樹園(じじゅえん)、または秋艸堂と名づけた。20年4月14日、米軍機の爆撃により家屋は全焼。それまでに集めた書籍、資料は灰燼に帰す。その後は新潟に帰郷、東京に住むことはなかった。
下落合の秋艸堂で詠んだ歌に「村荘雑事」17首(『南京新唱』)がある。
きく うう と おり たつ には の このま ゆ も
たまたま とほき うぐひす の こゑ
むさしの の くさ に とばしる むらさめ の いや
しくしくに くるる あき かな
歌集にはその他『鹿鳴集』『自註鹿鳴集』『寒燈集』など。随筆集に『渾齋随筆』。自作の短歌などを揮毫した独自の書は高く評価され、文人として近代の文芸界に屹立(きつりつ)している。
早稲田大学構内には八一の収集品を基に設立した會津八一記念博物館がある。